輪島朝市の歴史

「日本三大朝市」の一つといわれる「輪島朝市」はどのような歴史的経過があるのだろうかを今一度調べてみました。(諸説あるようですが、調べたことを)ご紹介いたします。  

もともと「市」というのは「振り売り」や「行商」など神社の境内で祭礼の日におこなわれる物々交換から始まることが多いそうですが、輪島朝市も同じように神社の境内での物々交換から始まったとされされています。

奈良時代後期か平安時代はじめ頃(800年前後ごろ)

鳳至(ふげし)郡(輪島を含む能登地方にあった郡)の鳳至比古神社(ふげしひこじんじゃ)の祭礼日に、大斎地(おおいつきどころ=神の御霊を祀るために清めた場所)に生産物を持ち寄って物々交換し合っていた。これが輪島の市のはじまりと言われている。 

輪島の市には、水産物や農産物以外に、朝廷へ上納したものの余剰生産物も出されていた。稲舟・釜屋谷・洲衛で焼かれた須恵器の杯・碗・皿・かめ・つぼ・鉢、また、木地師等が作った漆ぬりの椀や丸盆・盃・小皿などの食器類の中には布着せのものもあった。 

平安時代(794〜1185)

神社の祭日にだけ行っていた市だが、生産物が増え、交換が盛んになってくるにつれて酉の市、辰の市のように十二支のうちの定まった日、つまり12日目毎に市を開くようになる。各地の鷲神社(おおとりじんじゃ)の祭礼に開かれる酉の市はその名残である。 

平安時代の終わり頃には、10日ごとに市が立つようになり、月の四・十四・二十四日に市が開かれる所は四日市、五・十五・二十五日なら五日市、十・二十・三十日なら十日市と呼ばれた。三重県の四日市、滋賀県の八日市などは当時の市の名が地名となったものである。 

鎌倉時代〜室町時代(1185~)

商品流通の発達によって、国衙(こくが=政庁)、荘官の住地、交通の要地、社寺の門前などに、月6回開かれる定期市「六斎市」が立つようになった。 

輪島では四と九のつく日の月6回開かれた。(文治の時期に長谷部信連(のぶつら)が地頭になったあたりで始まった説もあり) 

このころ、市にはそれぞれの商品について「座(商工業者の組合)」があり、座の商人が市における営業権を独占しており、それ以外の者は営業を禁じられていた。 

文治二年 (1186) 

長谷部信連(のぶつら)が源頼朝から任じられ地頭として輪島に入る。四と九のつく月六回開かれる「六斎市」はこの頃から始まったという説もある。

室町時代 永禄12年 (1569 )

九州筑前国上座郡鐘ヶ崎(福岡県宗像市)の数名の海士(あま)が能登国羽咋郡赤住村(石川県志賀町)へ知人を頼って来た。また、能登西海岸に漂着したとも言われている。北上して鳳至郡の吉浦村・皆月村へ移動し、漁業に従事した。毎年、秋には故郷の鐘ヶ崎に帰り、春になると能登へ来ていた。彼らは輪島市海士町(あままち)の人々の先祖で、現在、多くの海産物が海士町から輪島の市に出されている。 

安土桃山時代(1573〜1603) 

戦国大名たちが、城下町の繁栄のため領内の座を禁止し、新規の商人にも自由に商売をさせる政策、楽市楽座を行う。 

天正15年(1587) 

能登の領主だった前田利家が輪島の市のそうめん座を廃止。当時、そうめんは輪島の重要な特産物だった。 

文禄3年(1594) 

筑前の海士たちは、鳳至郡鵜入村(うにゅうむら)に借家して居留するようになる。

江戸時代 元和3年(1617)

海士の又兵衛が、加賀第二代藩主前田利常に拝謁し、鳳至郡光浦に定住して漁業を営むことを許される。舳倉島・七ツ島へ渡ってさかんに漁をおこなった。 

ここで朝市の歴史を語る上で重要な海士たちの「熨斗(のし)あわび」について紹介します。江戸時代になると、熨斗(のし)あわびを広範囲に慶事に用いられる風習が出来あがっていた。現代において贈り物につける「のしをつける」というが、「のし」とは紙を折りたたんだような部分のこと。これはアワビを表している。 

また、正月の飾り付けに熨斗が使われ、大名から庶民階級まで幅広い層に広がる。庶民層では正月に「喰積(くいつみ)」が行われ、三方もしくは四方に、米を盛り、熨斗あわび、昆布、勝栗、野老等を添えて、これを取って客にすすめたとされる。 

また、徳川家や諸大名の間で、礼儀作法が重じられ、熨斗あわびも慶事の折々に使用されたり、中国への重要な輸出品、貴重品だった。 

つまりあわびをとる海士たちは重要な役割をになっていたと考えられる。 

寛永20年(1643)

海士に対し運上を納めよという御印書が与えられ、海士達の舳倉島・七ツ島における漁業権が名実共に確認された。 

慶安2年(1649)

筑前の海士たちは光浦に住み始めて30年以上になったが、14軒の小屋に150~160人が住んでいたので狭苦しく、また正保3年(1646)より、藩から命ぜられていた熨斗(のし)あわびを作るもっと広い場所が必要であったため、鳳至町と輪島崎村の間にある土地千歩(およそ3,306㎡)の拝領を願い出て、その土地を与えられる。そこが、現在の輪島海士町である。 

宝永 (1704~1710) 

九日の市は、輪島川をはさんで東の河井・西の鳳至両町で交替にたてていた。四の日は河井本町通り、九の日は鳳至町の住吉神社の鳥居前で行われた。市の神もそこに置かれ、「市姫様」と呼ばれる。ご神体はどちらもそうめんを作るための大石臼で、当時盛んだった輪島そうめんづくりの繁栄がうかがわれる。 

江戸半ば 

北前船が航行するようになると、他国からの品も市に並ぶようになり、地域経済を潤した。重蔵、住吉、輪島崎の三社祭礼のときに開かれるのがお斎市である。これについても、古くから河井・鳳至両町の係争があり、1705年(宝永2年)には、7月24・25日は河井町、26・27日は鳳至町、28日は勝手次第と決められたという。このお斎市も各地から大勢の商人が入り込んでにぎわった。 

明治20年頃 

朝市が時代に合わないという理由から撤去の県令に対して、地元が陳情する。

明治43年 (1910) 

大火事で河井町千百戸が全焼する。輪島では、市のたつ場所には必ず住吉神社があったそうで、河井本町の住吉神社が重蔵神社に合祀された。

大正 (1912-1926) 

大正時代前後から、四と九の市日のほかに、毎日朝市がたつようになる。(明治末から大正の初め頃。大正時代の中頃、という説もあり) 

大正時代の初めの頃まで、当時、櫛比村の黒島の女たちが一夜塩の鯵をいっぱい入れたざるを天秤棒で担いで売りに来ていた。 

昭和 終戦直後 (1945) 

復員してきた関西方面の露天商達が、食料品を求めて朝市に入り込み、朝市が半ば闇市化した。のちに初代組合長となる久保田政義が露天商らと直接話をし、朝市の無法状態を解決した。 

終戦後、鳳至町住吉神社の境内に夕市がたつ。 

昭和33年 (1958) 

輪島市朝市組合が設立される。  

昭和36年(1961) 

輪島市のヤセの断崖がロケ地となった本清張の名作「ゼロの焦点」の映画が公開され大ヒットとなり、マスコミによる奥能登紹介、観光協会や市当局による宣伝などにより、能登ブームが到来する。 

昭和38年 (1963) 

年々自動車が増え、交通の妨げになるということから、警察署より「今後は朝市の道路使用は許可しない」と申し渡される。 

昭和40年代

輪島には、朝市・夕市・お斎市(おさい市)の三つの市があり、この三つを総括して輪島の市と称された。

昭和45年 (1970) 

朝市の道路使用許可の嘆願は数年聞き入れられなかったが、この年9月からは毎日午前8時から正午まで河井町朝市通り約360mを車輌通行禁止の規制が認められ、朝市は交通地獄から解放されて、歩行者天国となり、ゆっくりと買い物や見物、ワイワイガヤガヤおしゃべりすることができるようになる。朝市は女性たちが家庭の煩雑さから解放される憩いの場でもあり、レクリエーションの場でもあり、情報交換の社交の場ともなった。「市の風に当たりに行く」という言葉があったそうだ。 

昭和40年代に地域住民の台所輪島朝市を観光客誘致と宿泊基地確立のための「目玉商品」とするべく、輪島の旅館関係者が奔走した。そのため輪島市の観光客入込概数は1965年35万人から、1970年115万1,000人、1975年178万3,000人、1980年ビークの270万1,000人と増加した。「輪品朝市がクシャミすると和倉温泉が風邪をひく」とさえ、ささやかれた。 

売る人も主として女性、買う人も主として女性となっており、女性の生活力を示している。「亭主のひとりやふたり養えない女は女の風上に置けぬ甲斐性なしだ」というのが輪島女の心意気だといわれている。 

このようにして、輪島の朝市はいわゆる「生活市」から「観光市」へと転化していき、輪島朝市の転換期をむかえました。長い歴史のなかで育まれてきた輪島の朝市は、生活市から出発し、売る人と買う人の心の触れあいのなかで盛んになってきました。